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平成転職事情【1】  小峰 尚

小峰 尚
2000.3.14


 小生は、21年間奉職した日産自動車から今春、ラッセル・レイノルズ・アソシエイツ・ジャパン・インクという米系の人材コンサルタント会社に転職した。

(1)日産自動車へ入社
学校を卒業した後、司法試験を目指していたが、一年留年したものの、断念して、昭和53年に、日産自動車に入社した。当時の日産自動車は、「技術の日産」の名前のとおり、技術力を背景に国内販売ではトヨタと拮抗していたし、海外への事業展開もトヨタに先行して積極的に行っており、国際的な企業というイメージが強く、小生も、国際舞台での活躍を期待して入社したものである。
 入社後、国内営業に配属され、トヨタのお膝元の名古屋でのセールス出向(18ヶ月間で83台を販売し社長賞を受賞)を経験した。その後、「一貫保険」という生産車両の工場オフライン後ユーザー納車までの事故に対する保険制度の運営を担当した。
 このとき、販売会社負担保険料制度の改定、修理料金表の設定等を実施して損害率を改善し、結果的に、一貫保険料の削減を実現することができた。いわばそのご褒美として、1984年から一年間、米国イリノイ大学ピアタビジネススクールへ留学する機会を得た。

(2)イリノイ大学留学
 この留学は1年間のものでいわゆるMBA(経営学修士:2年間の留学が必要)を取得できるものではないが、大学院の経営学の授業(マーケティング、会計学等)の他、米国企業訪問(バトワイザーで有名なアンハウザ-ブッシュ、化粧品・薬品会社のイーライ・リリ-、トラクターのキャタピラー等米国中西部の企業)が組み込まれており、本場のマーケティング理論等を学んだだけでなく、米国の企業社会を垣間見ることができる優れたプログラムであった。
 この留学の経験が後の米国赴任を実現し、さらには、今回の転職に繋がっており、イリノイ大学にはそういう意味でも大変お世話になったと言えよう。実は、今年、留学後14年ぶりにキャンパスを訪問し、以前お世話になった恩師や大学関係者と再会を果たし、歓談する機会を持つことができた。今後、同大学の日本人留学生のOB会運営に協力していこうと考えているところである。

(3)北米日産ワシントン事務所に出向
 留学終了後、日米自動車部品問題が政治問題化し、若手を米国の首都ワシントン事務所に派遣するという話があり、その話に飛びついて、ワシントンDCに赴任したのが1986年であった。今思えば、この決断が日産における人生に大きな影響を及ぼしたように思われる。ワシントン事務所以降、自動車の本業からいわば虚業の世界にどっぷりとつかることになるからである。
 ワシントンには、日本の自動車メーカー3社が事務所を設置し、通産省と協力しながら、情報収集、ロビイング活動を展開しており、日産の場合は、工場進出をしていたテネシー州の議員達とのパイプを生かし、部品問題の沈静化及び、日本車輸入規制法案の反対活動等を米国流のグラスルーツ運動(従業員が議員に直接手紙を出したり、電報を打つという直接民主主義に根ざした政治活動)や、広報活動として、エディトリアルキャンペーン(新聞の社説に保護貿易主義反対、自由貿易主義支持の論陣を掲載するよう、新聞記者、論説委員等にブリーフィングを行う)を展開した。

(4)日産自動車復職
 4年間の任期を終了して帰国したところ、それまで送っていたワシントン情報の受け手である渉外部という部署で、日本国内での政官財界活動を担当することになり、仕事柄、経営トップへの案件説明という機会を得ることが多くなり、自動車という本業からますます離れた業務を担当することになった。渉外部時代の思い出は、ブッシュ大統領訪日時の一連の広報対応と久米会長のダボスフォーラム出席への同行がある。
 ブッシュ大統領が不況に苦しむ米国の財界人を引きつれて来日することが確定した1991年の秋、日本の自動車業界は、当時の宮沢首相に、業界として出来うる協力をするようにと指示され、米国製自動車部品の購入計画、米国製自動車の輸入促進等に関する「ボランタリー・プラン」を発表した。この取りまとめは、通産省自動車課と経営トップの間に入り、大変な苦労をしたが、大統領の訪日に合わせた広報発表に漕ぎ着けることができた。
 ダボスフォーラムはスイスのダボスと言うスキーリゾートで毎年2月に開催される財界人の会議であり、世界中の財界人が一堂に会し、また、政官界の主要人物も集まるというイベントである。この会議に、パネリストとして出席を要請された久米会長(当時)が初めて出席することになり、キーノートスピーチの原稿を作成したり、会議の事務方として同行する栄誉に浴した。久米会長には、渉外部時代、とりわけ課長に昇格してからは、直に仕え、氏から多くの薫陶を受け、小生にとって、日産の人生で最も充実した時代となった。



(5)(社)自動車工業振興会へ出向
 久米会長が業界団体の会長を辞して、暇になるかと思っていたら、突然、1994年東京モーターショーの事務局である自動車工業振興会という業界団体に出向を命じられた。この団体は20名程度の小さな所帯であり、2年に一度のモーターショーの運営を担当しているほか、自動車ガイドブックと言う本を出版している団体である。
 小生は、メーカー出身者として初めて資料部長に就任し、自動車ガイドブックの編集、自動車ガイドブックのCD-ROM版の企画製作、モーターショーのプレスセンター長と言う大変面白い仕事を経験させてもらった。
 当時は、インターネットがそれほど普及していなく、モーターショーの広報ツールとして世界で初めて採用したところ、大変なアクセス件数を得て、自動車業界としてもホームページを各社が相次いで設定するきっかけともなった。今では、世界中のモーターショーがそれこそ、行かなくてもホームページで楽しめるようになっており、隔世の感がする。
 自工振時代、最も記憶に残っているのは、マルチメディア関連の協賛イベントの企画であった。モーターショーは15日間で150万人もの来場者がくる日本最大のイベントである。その動員力に着目して協賛希望の会社は多数に上るが、パソコンの急速な普及、インターネットやマルチメディアブームに乗って、協賛社数は10社を超え、集めた協賛金は1億円になったのである。
 一番のヒットは、ソニーのプレイステーションの協賛を得て、グランツーリスモというソフトの体験コーナーを会場に設置して発売前のソフトを思う存分楽しめるという、来場者に今までとは一味違ったモーターショーの楽しみ方を提案したりした。
これら協賛イベントの経験を通じて、時代の先端を行くビジネスの面白さを再発見し、日産でのキャリアの将来に疑問を感じ始めたのが今回の転職のきっかけのひとつにもなった。


(6)日産自動車に復職
 1998年に日産自動車の広報部社会文化室長として復職し、15年間続いている社会貢献活動のメインイベント「童話と絵本のグランプリ」の15周年事業に取り組んだり、これから日本の社会のなかでますます重要な役割を担うことになる非営利団体(NPO)でスタッフとして働く学生に奨学金を支給するという「NPOラーニング奨学金制度」を日本で初めて立ち上げるなど、新しい案件に取り組んだものの、会社の経営不振から社会貢献事業の予算は削減され続けており、「仕事の遣り甲斐」に限界を感じ始めたのが今からほぼ一年前のことである。
 広報部の業務は、4年間出向している間に、自分より若手の課長に重要な仕事が任されており、社内の他部署を見ても、同期は多く、今から他部署に割り込める隙はなさそうな事情であった。師事した久米会長も既に、社友という立場に引退しており、それほど義理を感じなくてすむ状況だったこともあり、転職を決意したのである。

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